2020年11月17日火曜日

違う言語を喋るときは性格が変わる?


同僚はアメリカ人なので会社では英語、家族は日本人なので家では日本語です。幸運なことに会社にも同じ日本人出向者はいながら、仕事ではほとんど関係しないので本当に英語のみ。トレーニングには最適です。

それで気づいたのですが、自分が英語でしゃべっている時はどうやらちょっと性格が違う人のようです。なんというか、より明るく、社交的になる気がする。で、なんでだろおうなーとずっと不思議というか疑問だったのですが、同じく海外経験者と話をしていてわかりました。どうやら、言語が異なることが理由で英語でしゃべる内容と日本語でしゃべる内容が違うから、それに伴って性格というか雰囲気とかも変わるという事に思い至りました。そう考えるとなんだかそれは妥当な気がしてきます。しゃべる言葉が行動とか人格をつくる、って妥当な気がします。

やっぱり英語と日本語って直訳って無理。多くの場合うまく言語にできないずれがあるんだなあ、と(自分的には)感じます。それを正しく理解できているのか、伝えられているのかわかりませんが、それが正しいことを目指すこともキリがなくて、その中で何とかやっていくしかないんだなあ、と思います。

2020年10月25日日曜日

今後への戒め


いま過去の下書きを見たら、赴任中に学んだことをまとめてあったのでそのまま上げます。どうやら3月3日に書いたもののようです。

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アメリカの会社出向中は日本とはだいぶ違った感じの経験でした。会社として小さく、自分の持っている「権限」が遥かに大きかった。でも、そのうえでいろいろ考えることもありました。忘れないように書いておきます。日本に戻って生活に慣れたら意味不明なことなのかもしれませんが、それでも書くことには意味があると思います。

  • 自分がある程度の大きな権限を持っていたとしても、自分がヒトとしてほかの人より優れているからではない。会社の仕事はあくまでも役割分担であって、それに対して給料が支払われているだけ。
  • 「責任を取るから」という言葉には意味はない。なぜなら、たいていのことはうまくいかなかったときにそれを回復することは実質的にほぼ不可能だから。例えば、新規の感染症の広がりを防ぐためにいろんな方策を「XXの責任でやる」といって手を打って、でも不幸なことにその努力の甲斐なく国中に広がってしまった場合、いったいどうやって責任を取るというのでしょうか。責任ある立場をやめる?それはやったらいい。でも失ったものは帰ってこないので、実質的な救済は不可能です。もちろんその人が辞めてほかの人が代わりに指揮を取れば事態は改善するかもしれないので、辞めることは否定しません。でも、安易に「責任を取る」といったからと言って何でも許される、仕方ない、という考え方はおかしいと感じます。え?だったらどうしたらいいって?「責任をとるから」ということを言わなければいいのです。だってたいていの場合責任は取れないんだから。何か自信/拠り所がないから「責任」ということになるのではないでしょうか。
  • (職種にもよるけど)完璧を求めすぎていては生産性が非常に落ちます。もちろん、間違いがないことは望ましい。でも、それが必須か、求められていることなのか、を考えなければなりません。日本-アメリカで同じような内容のことをやったとしても、その精度は全然違いました。でも、それでも大きな問題なく物事はすすんでいきます。では自分はいったいどうすればいいか、というと、自分の払う対価に見合うだけの期待をしましょう、ということです。極端な話で例えると、100円ショップで買った電子機器に電池がついていない!と苦情を出す、とか、そういうことはやめましょう、です。居酒屋で出てきた300円お通しについても、文句言ったらダメ。嫌なら1000円のお通しが出てくる店に行きましょう。でも、例えば100万円はらった自動車については、すこしは文句とか言います。
  • 仕事をするとき感情的にならない。感情的になっても問題解決にはならないので、その状況を改善するために自分が何をできるかを考えて実行したい。別のエントリーでも書きましたが、人を恐怖でコントロールする、というのはもう100年前のやり方であって今は時代が違うと思います。そういうのって、簡単だからみんなやるんであって、そしてたいてい簡単なやり方というのはメリットが小さいと思う。また、一緒に仕事をしている人の感情が安定していると、仕事はやりやすいと思います。

撤収!

 

3月20日(金)にユタを去り、21日(土)に無事帰国し、4月1日から新任地で働き始めました。詳細は生活の方のブログに書きましたので省略しますが、なんとか帰ってきました。

ということでこのブログもおしまい。最後がドタバタだったのでまとめみたいなのがないのですが、本当に楽しかったな、と今はおもいます。よき同僚、取引先、日本の元職場の方々に感謝します。

この後も思いついたらメモとか書きかけだった投稿はアップしますがこれでひとまずおしまいにします。読んでくださった方、ありがとうございました。

2020年2月28日金曜日

成果が出ないのはなぜ?


仕事で成果が出ないのは、基本的にはその人の責任だというのがおそらく一般的な考えだと思います。で、上司が指導したりして改善をはかるわけです。が、よく考えてみると、そのポジションにその人を付けた人の責任も十分にあって(適性を見極められなかった等)個人だけの問題ではないような気がします。特に人事を動かせる人は、普通の人が持っていないその人の情報(例えば年に1回の今後の仕事に関する希望調査の結果)が見れるわけで、だからこそ責任があるわけです。でもいわゆる日本の中間管理職は部下を選べないけどちゃんと仕事をしてもらえるようにする義務があって、そういう意味で片手落ちだと思います。

会社によるかもしれませんが、アメリカの場合は基本的な人事権は現場の管理職にあって、その人が適任と思った人を連れてきて仕事してもらいます。だから、その部下の業績の責任を負うというのはとても理解しやすいのです。この場合もちろん採用のスペシャリストが決めるわけではないので、トラブルも多いかもしれません。が、それも採用の過程で人事部のスペシャリストが別の視点から候補者を見て評価し、それを現場のマネージャーに説明することもできるし(この候補者はこういう理由であまりお勧めしない、等)、完全な素人採用にはなりえません。実際にこういう採用プロセスを(採用側から)経験してみて、とてもよく機能していると感じました。

アメリカの採用は多くの場合がスペシャリスト採用であり、日本のようにいずれはジェネラリストになる前提でのローテーション多用する育成とかなり違うためにこういう差が出る、ということもあります。確かにローテーションは悪い経験でないことも自分の経験として体で理解していますが、ローテーションは中間管理職よりずっと上の階層の人が「勝手に」決めるわけで、そうなると日本式人事が行われることになり、それが人事権の無い中間管理職を生み出す一つの原因になっているように思えます。新卒一括採用も問題の原因かもしれません。

実際にアメリカ式を経験してみて、これはとてもよくできているシステムだということを実感を持って理解できました。貴重な経験でした。

2020年1月11日土曜日

礼儀正しいことこそ最初に考えるべきこと


大学生のころから既に20年近くがたち、いろんな場所でいろんな勉強、仕事をしてきましたが、昔からとても疑問だったことをとてもうまく説明してくれている本に巡り合うことができました。それがこの。日本語版もあって、私はKindleで日本語版を読んでます。

礼儀正しさ、って単語が英語でも存在してCivilityっていうんですね。知りませんでした。

最初に不思議に思ったのは大学の研究室。学部の4年生から配属されるのですが、研究室を主宰する教授のもと、学部生は修士の学生につけてもらって、いわゆる研究の基礎、テクニックを学びます。当然といえば当然で、これは非常にありがたいことだったと思っています。ただ、(業種のせいかもしれませんし、時代の風潮だったのかもしれませんが)全体的に体育会的なノリがあって、先輩のいうことには従う、先生のいうことは絶対、みたいな感じでした。会社で最初に配属された部署もそういう気配がありました。これは職種のせいである可能性も高い気がします。とりあえずはそういうもの、ということは受け入れつつ、でも結構疑問だったりしてました。

これが、「長年疑問だったのは、やっぱり変だった」と最初に思ったのは、10年ほど前にMITでポスドクをしてた時です。当時の研究室のボスは、この世界でかなりの有名人で、すごい研究の成果を既に残している人です。が、この人、全然偉そうにしないし、本当に誰とでも対等に話をしてくれました。めったに会わない私の妻の名前まで憶えてくれて、研究室を去る日は一緒にゴハンを食べに連れて行ってくれました。あ、ゴハンはポイントではないけど、人としてとても尊敬できる人でした。ちなみに研究室のほかの人達も95%くらいはいい人で、とても気持ちよく研究ができました。それでもちゃんと研究室としては成果出てるんですよね。

ということでその後も気になっていたところでこの本に巡り合って、なるほどーと思ったのです。いろんな本を読んでいると、こういう長年の謎に対して何かを示唆してくれるような本に巡り合えるので、とてもうれしいです。

気づいたら自分もそれなりの年数会社に勤めているので年下の人も増えてきました。ですので、なおさら誰に対しても礼儀正しく、というのは意識してやろうと思うのです。

させていただきます。


さいきんずっと気になっているのが「させていただきます」の使い方です。仕事で日本語のメールをしているとしょっちゅう見かけます。たぶん使っている人はこう言っておけば丁寧、と思って無意識に使っているんだと思います。確かに便利な言葉です。が、個人的にとても嫌いです。とても変に見える。

させて頂きます、といっておきながら、たいていの場合は何の許可も取ってないのにこうするって勝手に決めてません?考えすぎかもしれませんが、普通に「~やります」でいいのでは?と思います。

2019年12月21日土曜日

なぜ人は怒ってしまうのか


仕事をしていると、「怒る人」っています。場合によっては上司だったり、同僚だったり、他の部門の人だったり。会議の時に怒り出したり、 怒りのメールが送られてきたり、抗議がほかの部門の上のほうから上司経由でやってきたり。苦情はしょうがないと思います。仕事なので。でも、言いたいことは「いちいち怒る必要ない」ということです。

怒られることを否定するわけでもないです。例えば教育上必要であることは理解できます。子供なんてもちろんしょっちゅう怒られる。怒られることに耐えて成長することも否定しません。自分が今までいろんなところで「怒られて」来たことが無駄だったとも思いません。

でも、話をできるのが大人。意見が違うのは当然。違うことを確認するために話をして、両方が納得できないかもしれないけど何らかの答えを出していく、というのが仕事なのではないかと思います。できることなら、少しでも多くの人たちがそうやって気を付けてくれると、仕事はもっとやりやすくなるのではないかと思います。

もちろん自分も仕事していて怒ることがあります。でも、なるべく怒らないように気を付けてます。それは、気を付けないとそうなってしまうから。

怒る機会を減らして、心に平静を保っておくことで、間違った判断が減るんじゃないかな。よく「怒っている人」っていうのは、周りに迷惑をかけている、ということが社会的に合意されてくれば、少し暮らしやすくなるんだと思います。




電話ブース


こんな製品があるそうです。

オフィスの電話ブース。$3450です。

大部屋オフィスでは電話していると確かにうるさい。たまに怒ってる人とかいるし聞き苦しい。中がそとから見えるのもいい。それでも防音。今は少ない「高性能電話ボックス」って感じでしょうか。

これ、自宅で仕事する人にもいいと思います。でもできれば広さは倍くらいで。サブディスプレイがあればなおよし。都会に住む人でスペースがない前提で、すごく便利でいろんな使い方がありそうです。

2019年11月20日水曜日

日本語を書いたり喋ったりするときに気を付けること


書こう書こうと思っていたけど書いていなかった、と思っていたら、既に書いてたことにあとで気づきました。。。でも、また書いちゃったのでそのままにします。

日本語と英語の両方で仕事をしていると、たいてい相互に変換できない単語というものが出てきます。例えばマネジメントって該当する日本語がないです。「管理」と訳されることはありますが、日本語の「管理」と英語のManagementはちょっと意味合いが違うと思います。まあ、これは仕方ないです。

が、そうでなかったとしても、特に深い意味がなくても英語をカタカナにして、それを多用する人って、以外にいるんです。仕事メールとか、よーく見てください。自分も気を付けているつもりでも無意識にやっていることもたまにあります。

「あ、私もそれAgreeです。」
「バジェットのアプルーバルはすでにもらっているからこれは大丈夫」
「とりあえずその点はテンポラリーで解決しておいて、その内容で当局にドキュメントをサブミットして返事を待ったらいいんじゃない?」
「うーん、そうするとアレとコレがコンフリクトするから、リスクミチゲーションプランをプロポーズしてください」

とか、ちょっと極端だけど、しゃべるのに関してはより多くの人がこうやっている人が結構いるように思います。これでちゃんと意思疎通できて仕事が進むんならいいんですが、個人的にはこれは「美しくない」と思います。そして、何となく誤魔化されているような気がする。

ほかの言語を日本語に取り込む、ということは昔からオランダ語とかドイツ語でも結構起きているので、それ自体は否定しません。もしかしたら上記のような「じゃぱんいんぐりっしゅ」もあと50年もしたらビジネスの世界では当たり前になるかもしれません。

英語で説明するなら英語、日本語で話をするなら日本語に絞らないと、個人的にはやりにくいです。なんか余計なところに気が散ってしまって、本来大事な中身がおろそかになりそうです。嫌味に聞こえるかもしれませんが、逆に英語がちゃんと使いこなせないと、こういう日本語と英語を混ぜてしゃべることができるのかもしれない、とも思います。もしくは、混ぜて使っているからいつまでたってもどっちもちゃんと喋れないとか。ははは。





2019年11月17日日曜日

誰と仕事をするかが大事


いまの会社の社員数は、私がこっちに来た時の倍以上に増えました。しかも、自宅からリモートで働いている人も少なくないので全社員が一か所に集まることはめったにありません。そこで、社長は3か月に1回集まって、半日かけてAll Company Meetingというのをやって、そこで社長やVice Presidentレベルの人が会社の状況や今年の目標、進捗具合、新入社員などを紹介します。

そこで、社長が言ってたのですが、「仕事は大事だけど、仕事を人生の中心に据えてほしくはない」のだそうです。文脈としては仕事するだけでなく、しっかりプライベートの生活を持ち、そこから活力を得てまた仕事に戻りましょうということでした。普通は仕事と人生のバランスをとって。。。となるところを、仕事を中心にしてほしくない、とはびっくりです。私の聞き取れる限りではそう聞こえました。

少したってから、以下の記事を見ました。
https://coach.co.jp/view/20190521.html#html


「あなたが最も多くの時間を過ごしている5人は誰ですか?あなた自身はその5人の平均なのです」、だそうです。そして、直接つながっている人が幸せだと、あなた自身の幸福度も15%アップする(年収100万円の増加では幸福度はたった2%しかアップしない)。

なので、これを額面通りに取ると、幸せそうな人と一緒により多くの時間を過ごせば、自分も幸せになる、ということなのです。実感としてはよくわかります。いまは会社の規模が小さいこともあって、皆さんとてもいい人たちです。すくなくとも仕事を一緒にしている人たちの中でヒトを不快にさせるような人はいません。

結局、何をするか、どの地位にいるのか、も(経済的には)大事ですが、幸せのためには「誰と仕事するか」がとても大事なんだと思います。昭和の時代(に仕事したことは無いけど)とは感じがかなりちがうと実感します。

プレッシャーの中で仕事をすることが絶対にいいこと?


アメリカに転勤してもうすぐ2年。いろいろあったけど、赴任当初の部署状態がかなりマシになってきました(比較の問題であって、元いた日本の部署に比べたら全然だけど、それはまたそれで)。プチトラブルはいろいろ起きますが、もはや驚きもあまりありません。

あるとき出向者の社内報的なもので「赴任前の意気込みとか、何をやり遂げたいと思って赴任したか」とかいろいろインタビューみたいなのをされたことがありました。それで考えてみたら、赴任前は一人目の子供が生まれたり、そんな状態なので引っ越し関係の膨大な手続きを毎晩やったり(ビザ申請も)、当然仕事も忙しかったので正直何も覚えてませんでした。だから意気込みとかそういうの全然ナシ。久々のアメリカ生活でちょっとワクワクしてたくらい。

ということで、なんとなくわーっと異動して、その中で良く分からないままに何とかその日暮らしの感じでいろいろ試行錯誤して、いろんな人の協力もあってようやく今のやや平穏な感じに落ち着いたという感じです。

この間、何がもとの部署の仕事と違ったかというと、無駄に「プレッシャーを感じる」とか、「ヘマしたらみっともない」とか、そういうことを気にせずに仕事に没頭できていたことです。こっちの上司がそれはそれで忙しかったからかもしれないけど、ほぼ放任でやらせてくれました。報告はするけど、口出しはほぼなし。もちろんサポートはしてくれます。

そんな感じで2年間やってて、自分としてはやるべきことはちゃんとできたと思います。で、それと比べて昔は(なんとなくだけど)プレッシャーを感じて仕事や研究をしてたのって、いったい何だったんだ?と思い至るわけです。

たいていの人は自分の経験をもとに「苦しい思いをしてこそ一人前になれる」とか、「プレッシャーをはねのけてこそ素晴らしい成果が出て出世ができるのである」とか、そういうことを言っているんじゃないでしょうか。そういう人が会社で「偉い人」になる。

決してそういう努力とかが無駄だったといっているわけではないです。自分は大学院に行ってた時はいろんな意味でプレッシャーを受けながら日々徹夜で実験して(しかも、たぶんそうすることは無駄なんだろうな、と気づきつつ「怒られるから」必死にやってた)大変な思いをしたこともありました。大学を卒業した後に思い返せば、当時の努力が無駄だったとも思いませんし、仕事上とても役に立ったと思っています。でも、だからといってそれが唯一で最高のやり方だったということでは全然ないんですよね。そういうやり方をやっていたために時間と体力と知力を奪われて得られなかったこともある。あるビジネス本ではそういうやり方を「犬の道」と言って、それだけはやったらダメと戒めてました。本当にその気持ち良く分かります。「犬の道」経験済み。

で、話を元に戻すと、今回は決して長時間働かなかったとは言いませんが(時差の中で仕事をしていたのでやむなし)、それでも努力の割には成果が出たように思います。毎日夕方は子供と外を散歩したり、公園で遊んだりもできました。いまは通勤が楽なので、という事情もありますが、日本にいてできたとは到底思えません。本来そういう働き方を目指すべきだし、そうするために必要なのはプレッシャーではないと思うのです。誤解のないように補足すると、嫌なことを経験しなくてもいいという意味ではないですし、頑張らなくてもいいということでもない。まじめに仕事することは否定しません。

なんだか話がいろいろそれたりもしたけど、結局、いかに集中してやろうと思えるような仕事を作り出すか、それを自分の仕事にできるか、ということがすごく大事なんだということが良く分かった、ということです。そして、無駄にプレッシャーを感じさせることの無意味さと、そうせざるを得なくなっている時点でまず設定自体に無理があることを理解してくれる人が増えることを祈ってます。

違う言語を喋るときは性格が変わる?

同僚はアメリカ人なので会社では英語、家族は日本人なので家では日本語です。幸運なことに会社にも同じ日本人出向者はいながら、仕事ではほとんど関係しないので本当に英語のみ。トレーニングには最適です。 それで気づいたのですが、自分が英語でしゃべっている時はどうやらちょっと性格が違う人...